いろいろなカップルの形があって、お互いがそれで満足しているなら、いえ、満足していなくても、ワタシは口を出す立場にありませんー。カップルにはカップルの学びがあるからです。 でも、袋小路にはまってしまいどうしたらいいか分からない、この状態がこのまま続くことに絶望するけど仕方ない・・・なんて思ってる人が多いと思うので書きます。
共依存(http://toyokeizai.net/articles/-/181438)
DVなどのニュースで認知度が上がった言葉かもしれませんね。 お互いに敬意を払いあえるカップルであれば、暴力(言葉の暴力を含めて)は許されることではありませんが、現実的には古代からまかりとおってきたものであると思います。
暴力をする側は、大体が心に傷があって不安が強い人です。(以下、抜粋)
1.被害者とはまるで関係のない過去の経験の中で地に落ちた自己肯定感を、誰かを従える(虐げる)ことで回復したい
2.不安耐性と自己効力感が極端に低く、とにかく不安で揺さぶられるため自分の思うように人や状況を支配してなんとか自分を保ちたい
3.実は被害者を支配したいとか思ってはいないのだけど、自覚的な傍若無人ぶりを発揮しても自分は相手から許される、愛された存在だと確認したい
4.サイコパス。他者は利用するために存在するもの で、暴力を受ける側は、優しく何事も断れないタイプの人です。
痛い思いをしてるのに、相手が一度反省すると、「もう大丈夫だ、相手は更正した」と思ってしまう。極めつけのセリフは「ワタシが面倒みてあげなきゃ誰がみてあげるの?」。
痛い思いや、尊厳を傷つけられながら、それでも離れられないのは、暴力を受ける側にも原因があります。暴力を受ける自分に対して「ワタシはそれだけの人物でしかない」という自己価値観の低さは、日本人に多く、しかも忍耐は美徳という風習がより拍車をかけているようにも見えます。 そんな思いこみは「ほらね、やっぱり自分はそれだけの人間でしかない」という体験を引き寄せます。
そうやってダメな人間であることをひとつひとつ念押ししながら、さらに深みにはまっていきます。 痛い想いをしたり、自分の尊厳を傷つけられたとき、涙がでるのはなぜでしょう? 「ワタシ、本当はそんなフェアじゃない事される人じゃないよ」という魂の叫びじゃないかなと思います。
魂が「もっと大事にして」と訴えるのは、誰に聞いてほしいからでしょう? 暴力をする人?お母さん?いいえ、自分自身です。 「ワタシなんて愛される資格なんてないもん。バカだし不細工だし若くないし。 どんなに酷い事をされたって、相手を見捨てないことが私の存在価値なんだもん」 こんな言葉を自分にかけていたりしませんか。
暴力を許してくれる人を探している人と、受け入れる人。依存したい人と、される人。 これで、両者のニーズが合致してしまいました。共依存の出来上がりです。 どんなに暴力を振るわれても、別れないカップルは、両者のニーズが合致しているからです。 ここで「ワタシはそれでいいの」という方は、険しい人生を選び努力されていることに拍手を送ります。 でも、「抜け出したいけどどうしてもうまく行かない!」という方に向けて書きます。
共依存を終わりにする方法は、自分を一番に愛してあげることです。自分が気持ちいい、楽しい、嬉しい、そんな状態を作るにはどうしたらいいかなって必死で考えます。手っ取り早いのは、物理的に距離をおくことでしょうか。 自分の面倒は自分で見せましょう! 人は誰も、自分の足で立ち前を向き歩き出すことができるイキモノです。 そのチャレンジをするために生まれてきたとも言えます。 必要以上に手を貸すことは、そのチャレンジを台無しにすることでもあります。
依存される側のアナタは心根が優しくて、相手を見捨てるようなヒトデナシな事するくらいなら、自分を犠牲にしてしまうほうがずっと簡単なのですよね。そういう人だから、寄生されちゃうのです。寄生されたまま人生を閉じる人もいっぱいいます。でも、せっかく生まれてきたのですから、あったかい道を歩くことも可能なのです。強く望むこと、神様でもなんでもいいから、体験したい未来を思い描き願う事です。
ロクデナシの甘えたさんに優しくしようとする前に、自分自身に優しくしてあげてくださいね^^
寄生したい人は、寄生できる人を無意識に嗅ぎ分けてとりつきます。私に寄生できるなんて思わないでよ!というオーラを出すには、自分をちゃんと愛することです。がんばろー!
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