感性の鈍った社会「映画:美術館を手玉にとった男」

100点にのぼる贋作を美術館に寄贈した男性のドキュメンタリーを観ました。贋作ですが金銭の授受がないので罪に問われません。ただ、贋作を本物だと勘違いし受け取って展示してしまった美術館側は怒ってる(笑)


美術の権威ともあろう美術館が、本物かどうかの精査を怠った事がまず恥ずかしいのだけど、最も恥ずかしいのは、ゴッホとかモネとか作者が有名だから価値があるのであって、無名の精神病患者が描いた絵など無価値だ、という価値観に向かい合わされた社会。


寸分狂わぬ精密さで再現され、美術の権威でさえ気付かない贋作は、ほとんど「同じモノ」と呼べる作品。なのに誰が描いたかを重要視するということは、作品の価値とは作品そのものじゃなく作者に寄るところを重要視してるということになります。


別の映画「最強のふたり」でも似たようなエピソードがありました。無名の黒人青年が描いた絵を、お金持ちのフィリップが紹介しただけで高額で売れてしまう。何やらスゴそうな画家だから、と勝手に想像を膨らませて(笑)。愚の骨頂 とはこのことか。


有名だからとか誰かが高評価をしていたからという理由で、人々は自分の目や耳で作品を鑑賞することをやめて多数意見に流されてしまう。あまつさえ自分の感性感想を表現する人を疎ましく思う人までいる。


自分の耳や目などの感覚器官で世界を見ずに、誰か知らない人々の耳や目で世界を知った気になるとはなんと無意味なことだろう。かくいう私とて芸術を味わう感性が鋭い訳じゃないけれど、自分と同じ感性の作品に出会ったときの感動は筆舌に尽くせない。


心が跳ね踊り癒され涙が出てくるという極個人的な経験だけど、それがひょんな時に他者と共有する機会に恵まれたとき、この人はこんな風に受け取るのか興味深いな、と新たな感動が来る。それぞれ違ったセンサーを持つ人間同士の醍醐味じゃなかろうか。


逆に、アレって◯◯だよねぇ?と自分の感性を押しつけたりせず、自分のセンサーが独特な(周囲とは一切違う)感覚感想を感じたとしても、そのユニークさを愛でてあげたいものです。同調を強いるのは善悪ものさしがうずいてるからかな。芸術は善悪ではないし誰に同調してもらわなくたっていいじゃない。あなたはそう感じたのですね、ほう~!私はこう感じたんですよ~と自分と相手を尊重しながら感想を言い合う時間はほのぼのと楽しいものです。




話を戻して。

贋作作家の男性は、騙してやろうという悪意は微塵も感じられず、どうやら無意識にそんな価値観でいいのかい?と疑問を投げかけているように見えました。そんな男性に対して社会がどう反応したのかというと、「作品を展示する場所を設けるからもう二度と贋作を持ってこないで」というものでした。

社会は「男性の自己顕示欲を満たして贋作を防ごう」としたんですね。

人々は自分の中にあるフィルターを通してしか物事を見れないんだなと改めて思います。男性は自己顕示欲を満たしたいなどと微塵も思っていないのです。いたずらしてワクワクする少年のような気分で製作に打ち込みました。


価値観を壊す者ーシステムクラッシャーとしての生き方を30年に渡って淡々とこなし、いい加減身バレしてしまった彼は、今は贋作ではなく自分のオリジナルを描いて静かに暮らしています。彼のWEBサイトで見れるポートレートの数々は、彼の中にあるフィルターが優しさに満ちたものである証明ともいえます。

れん's ARCHIVES

争いや分離はもう終わりにしよう。

次のステージは「理解しあうこと」

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